tqazwsxedcのブログ

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*多様性 Diversity*

日本では、同地方にて15年程生活していたが、その間、
多かれ少なかれ、違和感の様なものを感じ続けていた。
何だか自分と型が合わない。
生まれが関東圏で、多感な時に引っ越した難しさもあったのかもしれない。

もちろん、その地方は基本的にすきだし、ずっと応援している。
いつも想う大事な場所。
個人的にすきな、特定の場所だってある。
私がただ言いたい正直な事は、
生活してみた上で、何だかフィットする感じが無い。
この違和感はどこからくるのか。
まるで、月日と共に必要なサイズの合った貝選びに失敗したヤドカリのような気分。
あれ、なぜか一向に貝と自分との隙間が埋まらない。
私の本当の居場所は一体何処だ!
 

日本は定規と鉛筆で絵を書く国とするなら、
カナダやオーストラリアは鉛筆だけの国なのかもしれない。

これは余談だけど、定規がいつからか好きでなくなった。
精密な設計やデザインを描くなどの場合を除いて、なぜわざわざそこまできっちりすべきなのか、未だに腑に落ちない。
個展の際に絵を描いたり図を切り取ったりする際も、定規を使わなかった。
ちなみに海外生活の中で一度も、定規を使用している人を仕事場や学校を含め見た覚えはない。

話は国の話に戻る。
日本は定規で枠を作り、人がその標準となる枠になんとか当てはまろうとする。
一方でこちらの国々は、みんなそれぞれバラバラの線を描く。枠がないので標準がない。
その分日本には無いような種類のショッキングな出来事が起こる。衝突もたくさんある。
そんな事柄に触れたこともない慣れていない様な人たちにとっては非情に、非常に苦しい。
トラウマのような気持ちにもなってしまうかもしれない。

ただ標準が無いので、枠にとらわれる必要がない。その人がその人のままでいる。
基本的に誰もそれを否定したり肯定したりする必要はない。
なぜなら、自分が自分らしくいること。
それが当たり前だから。
ある意味で、標準が無いのが標準かもしれない。
例えば、
心身の健全を考えた生活環境を目指したいと考え始め、
仕事を辞めて生活拠点を移動し、新規一点新しい仕事を探すという試みに、
'それをするには遅い年齢'という一般的な感覚は、
おそらく無いだろう。その必要が無い。
遅いかどうかは、その人が感じたり決めることであり、標準化できない。
 

次の記事 “尊重 Respectful”に続く。。